人生を変える本!人生の転機を与えてくれるおすすめ本まとめ

人生を変える本日記

人生を変える本

堕落論…坂口安吾

「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない」

第二次世界大戦直後の混迷した社会に、戦前戦中の倫理観を明確に否定して新しい指標を示した「堕落論」は、当時の若者たちの絶大な支持を集めた。

堕ちることにより救われるという安吾の考え方は、いつの時代でも受け入れられるに違いない。他に「恋愛論」「青春論」など、名エッセイ12編を収める。

堕落論はわずか数十ページの短編ですが、坂口安吾の怜悧な視点と緻密な論理展開を堪能できる傑作です。この本では、終戦直後の日本の社会情勢について冷徹に解析していきます。

安吾は、戦中の日本がヒューマニズムが溢れ、ある種のユートピア的な美しさを持った社会だったと回顧します。そのうえで現在(終戦直後当時)の日本は、それまで敵であったアメリカにごまをすり、社会の秩序は乱れに乱れていると言います。

そのような風潮に対して我慢ならない人も多くいることを認めたうえで、安吾はここで思考を大きく展開します。安吾曰く「このように乱れていて堕落している姿こそ人間の本質的な姿だ」戦中の理想の社会は奇跡的なもので、それはもう跡形もなく崩壊して本来の姿が現れたのだと言うのです。

しかし、人間は堕落し続けられるほど強くないことも安吾は指摘しています。堕落の後には、再び秩序を保ち支え合いを大切にしようとする社会を作ろうとするはずだ。堕落論はそのような見通しを示して締められます。

人間の弱さを認めたうえで、それでもなお弱さがあるからこそ希望を持つことができる。終戦直後にこのような見通しを示した坂口安吾の慧眼に、私はただただ驚かされました。

堕落論を読んだのは、ちょうど学生時代で人間関係に悩みを抱えている頃でした。人間関係のすべてが嫌になり、友人からの携帯への連絡を絶ち、誰とも話さない半分引きこもりのような生活を送っていました。学校の勉強にも身が入らなくなり、成績も急降下して進級も危ぶまれる状況でした。

人間関係が嫌になった原因は、希望に溢れてヒューマニティに溢れる人に囲まれたことです。全員とても良い人たちでしたが、私にはどうしても馴染めませんでした。自分の方が間違っているに違いないと自分を追い込む日々でした。そんな時に読んだ堕落論に救われました。

人間本来の姿は秩序は乱れ堕落したものだ、これは今の自分と同じだと思いました。そして、堕落しきったら、その後は再び立ち上がることを安吾は示してくれました。

今の私は確かに堕ちきっているかもしれない、しかし、いつかまた社会に戻れるはずだ。そう考えることで、一筋の希望を得た気分になりました。

安吾の予言通り、私は堕落しきるほど強くはなく、なんだかんだ言いながらも社会復帰して人間関係を回復できました。

ライター:ti

カラマーゾフの兄弟…ドストエフスキー

文豪ドストエフスキーの遺作にして最大の作品。第2部も構想されたが1部のみで中断。しかし空前絶後のスケールをもった小説が完成した。

帝政崩壊の予兆をはらむロシアのある町で殺人事件が起こり、ミステリータッチの衝撃的なストーリーが展開される。全4分冊、以下続刊。

人間はどう生きるべきかを考えさせられた小説です。

私は外部にコミットすることが苦手で、特に対人関係においてそれが顕著でした。もっといえば深く関わることを恐れていたというか、何事にも距離を置いて、自分が当事者にはならないように注意深く警戒して、もしそうなりそうな時はにべもなく離れてしまう臆病者、冷酷者でした。

それをどうにかしたいと思ってこの本を読んだわけではありません。しかし、読んだきっかけは思い出せませんが、何か読まなくてはいけないといった、義務感のようなものがあったのは確かです。

手にしたのは20代後半でしたが、読み終えたときには強烈なインパクトを受けました。

正直内容は、支離滅裂なところもあって、容易に理解できない箇所が多かったのですが、それでも辛抱強く読んでいくと、著者ドストエフスキーという人の激しい人間愛を感じ始め、彼を産み育てたロシアの泥臭さに妙な親近感を覚えたりもしたのでした。(今のロシアには感じにくいわけですが・・・・)

ドストエフスキーの激しい人間感情は、まさしく私が自分自身に感じる冷淡さの対極にあるものです。読めば読むほど自分とはまるで違う世界が浮き上がるこの小説は、同時に自分の生の矮小さを嫌というほど認識させられる内容になっていました。

もちろんほとんどの人の日々の生活ぶりは小説になるようなものではなくて むしろ当たり前だと思いますが、なんていうことはないことにでも時系列を無視したかのように、実際の時間よりはるかに長いこの小説の詳しい心理描写にうならされました。自分の心をえぐられたのです。

とりわけ感動的な終わりの部分で、ドストエフスキーのすさまじいまでの人間愛、ロシア愛に触れ、それまでの自分の生き方に欠けていたものを思い知らされ、これからの自分の生き方を考えさせられました。

世界的名著を読んだからといって、一方では生身の人生ですから、なんにでも小説のように行くわけではありませんが、この小説で考えさせられたことが、その後の人との接触において、ベースになっているのは確かなのです。ものすごい影響を受けましたし、今も受けています。

ライター:we

風の歌を聴け…村上春樹

村上春樹のデビュー作
1970年の夏、海辺の街に帰省した<僕>は、友人の<鼠>とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。2人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、<僕>の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。

この作品を読んだ当時、自分が将来に不安を覚え、一体何を目標として生きるべきか、またどういった日常によって幸福感を得ればよいのか、いわゆる若者にありがちなふつふつとした感情を抱いていたので、同じように、投げやりであったり、どこか破天荒であったり、先の見えない状況に、流されるように生きている「僕」の姿とその友人である「鼠」の姿が重なったことをよく記憶しています。

また、自分が神戸出身であり、主人公が神戸に帰郷してからの一連のほんの短い期間ではあったものの、なにかしら生きる指針のようなものを見つけて、またそのときのことをひと夏の思い出として胸に刻みこんで、東京に戻っていくといったストーリー展開も重なる部分が少なくなかったように思います。

この作品のなかには、名言といっても過言ではないような言い回しやフレーズがたくさん出てきました。なかでも、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」というものが最も心を打つものとなりました。

鼠は小説家を目指しているものの、いまいち鳴かず飛ばずであり、そのことを示唆した言葉なのですが、ときに悩み苦しむことがあったり、自問自答させられるような機会にぶち当たってしまったときには、必ずといってよいほどこの言葉を思い出すことになりました。

今を生きるということが、本来、苦痛を伴うものではあるものの、そこでしか得られない経験もあり、また自分のところを訪ねてきてはドアを開け、勝手に入ってきたと思いきや、またドアをしめて去っていく多くの人達のことを、それでも憎むこともなく、否定することもなく、ただそのようにして時間が流れていくものだと受け入れること。折り合いをつけることで、人生という深淵かつ壮大なテーマに対して、果敢に挑んでいくという姿勢を学ぶことができました。

結果的に、わたしは自分の人生を切り開くため、大学進学後、方向転換して自分の進みたい道を歩んでいく決断をすることになりました。

ライター:to

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